――精霊の住む森では殺生をしてはいけない。
     それは昔、ヒトと精霊の交わした約束。


     ◇


     ごつごつとした岩が地面を覆う湿度の高い森の中、柔らかな苔が生える岩から岩へ、飛び跳ねるようにアサユキは駆けていた。
     はあはあと荒い息を吐き、時折背後を気にしながらひたすらに走るその表情には、恐怖の色が浮かんでいる。

     アサユキは弓を射ることが得意だった。
     まだ子どもではあったが、獲物を狩ることはもちろん、仕留めた動物をばらすことだってちゃんとできる。
     狩りは女の仕事ではないと、里長である父親には呆れられたが、子どもだからと今は大目に見てくれている。
     今朝もアサユキは、兄のマヒルと、その友人たちとともに、狩りに出かけたのだった。

     簡素な貫頭衣と、草で編んだ草鞋《わらじ》を身につけ、弓と、石の矢尻をつけた矢を背中に背負い、腰の帯には石斧と石のナイフを挿した。
     兄たちとは付かず離れずの距離をとりながら、獲物を探して歩く。
     太陽が天の真ん中を過ぎた頃、アサユキは一匹のうさぎを見つけた。
     はやる気持ちを抑え、静かに矢をつがえる。
     目を眇め、めいっぱい引き絞ってから放った矢は、しかしわずかに外れ、うさぎは逃げていってしまった。
     この日初めての獲物だった。
     兄たちの気配は少し遠くだったために、アサユキは一人でうさぎの後を追った。
     うさぎの一匹くらい、一人でも仕留めることが出来る。そう考えてのことだった。

     だが、はっと我に返った時には、兄の気配はすでに周囲になかった。どうやらはぐれてしまったらしい。
     元の場所に戻ろうかとも頭の片隅で考えたのだが、せっかく見つけた獲物を取り逃がしてしまうことのほうがおしいような気持ちになる。
     木の実を煮てすりつぶし、焼いたものをいくつか持ってきていたし、腰には石斧や石のナイフもある。自分ひとりで集落に戻ることも出来るし、一晩くらいの野宿だって、どうということはない。
     アサユキは耳を澄まし、目を凝らして、逃げていったうさぎが残した跡を探した。

     
     このときアサユキは、うさぎを狩ることに夢中になっていて、森の様子に注意を払うことを怠っていた。やけに年老いた木々が多くなり、森の放つ気が、濃くなっていることに、まったく気づかずにいたのだった。
     
     
     そうして、ついにその姿を森の奥に見つけたアサユキは、今度こそ外してはなるものかと、慎重に矢をつがえる。
     瞳は少し離れたところにいるうさぎをみつめ、耳は獲物の息遣いを拾った。すべての感覚が一匹のうさぎに向かい、一点に集中した時、アサユキは夢中で矢を放った。
     だが矢を放つ瞬間に、ふっと違和感を感じた。
     そのせいで、わずかに矢の軌跡が逸れる。

     ひゅう……っと、弓が空を切り裂いた時、ざわり! と森がうごめいた。

    (しまった!)

     結局アサユキが放った矢は、うさぎをかすめて地面に突き刺さる。

    (よかった。殺さずに済んだ)

     しかし、アサユキの緊張はまだ解けない。体中の毛を逆立てながら、首を傾げ、全神経を集中して森の声を聞こうとした。
     しん、と静まった森の奥で、なにかとてつもない者たちのうごめく気配がした。

    (精霊の森!)

    『アサユキ、精霊の森に入ってはいけない。ましてや、あの森で狩りをしてはいけない。わかったね』

     里長である父の声が蘇る。

     ざざ……ざざざざ……ざ!

     妙な物音にアサユキの体はこわばり、ぎゅうっと縮こまる。背中がじわりと汗ばんだ。耳をそばだてていると、その音はドンドンと大きくなる。

    (何かが、近づいてくる! しかも、一匹や二匹じゃない!)

     それは無数の、森のなかに生きるものたちの気配だった。
     小さなものたちのうごめく音。その奥からもっと大きなものたちの気配もする。
     アサユキは血走った目で周囲をキョロキョロと見回すが、まだそのものたちの姿は見えなかった。
     恐ろしさが胃の奥からせり上がり、アサユキは踵を返すと、一目散に走り出した。

     草鞋を履いた足が勢い良く大地を蹴る。
     
     いつもなら、これくらいで息があがったりはしない……いつもなら、もっと早く森を抜けることができる……!

     けれど、焦れば焦るほど呼吸は乱れ、自分がどこを走っているのかもわからなくなった。
     耳の中には、自分を追う生き物の気配がこだました。
     急な坂道を、生い茂る樹々に手をかけながら、滑るように駆け下りた。
     そしてはっとする。
     坂道の先に地面がない!
     アサユキは必死で立ち止まろうとするのだが、勢いの付いた体は急には止まることが出来ない。
     とっさにそこに生えていた比較的大きな木にしがみつくが、体は惰性で崖の下に飛んでいこうとする。

    「はぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

     体が宙に浮いた。それから、腕が引き千切れそうな衝撃がアサユキを襲った。アサユキはしがみついた木に爪を立て、ギュッと目をつぶって痛みと衝撃に耐えた。

     はあ、はあ、はあ、はあ……

     自分の呼吸音が聞こえる。
     どうやら落ちずに済んだらしい。
     ほっとして、恐る恐る瞼を開けた。

    「ひっ!」

     喉が奇妙な音を立てた。

     アサユキが今駆け下りてきた斜面には、彼女を取り囲むように小さな虫たちがみっしりと地面を覆っていた。
     ハサミムシ、ムカデ、ハンミョウ、シデムシ……無数の小さな生き物たち。そしてその奥にネズミやうさぎの小動物も見えた。もっと奥には鹿や猪、そしてクマ。
     靄《もや》が出ていて、奥の方の動物ははっきりとは見えない。
     それらの生き物が、物音一つたてずに、じっとアサユキを取り囲んでいた。



    かつて、精霊がいた プロローグ

    「かつて、精霊がいた」

    「アサユキ 精霊と出会う」
    その一 その二 その三New