アサユキはしがみついた大木に体をぴったりと寄せ、瞬きもできずに目の前の光景をその瞳に写していた。
     生き物たちがまるで意志を持つかのようにうごめき、二つに分かれた。
     森の奥に向かって、生き物に囲まれた一本の道ができる。そしてその向こうから、なにかとてつもなく大きな力がこちらに向かってやってくるのが、アサユキにはわかった。

     ざわざわざわざわっ! っと、アサユキの体が震えた。うぶ毛の一本一本が立ち上がり、寒くもないのに鳥肌が立つ。

     無数の生き物たちが作り上げた道の向こうに、白くもやもやと光るものが見え始めた。そのもやは次第に広がり、眩しいほどになり、アサユキは思わず目を閉じる。
     目を閉じると、上も下もわからなくなるような感覚が広がる。それも恐ろしくて、自分自身を抱きしめながらアサユキは目を開いた。
     すると、先程までの光る靄は消えており、そのかわりにアサユキの目の前には、輝くばかりに美しい人が立っていた。

     ぽかん。とアサユキの口が開く。視線はその美しい人に惹きつけられたまま、外すことができなかった。

     傷一つない白くなめらかな肌。髪は濡れたようにつやつやと輝き、川の流れのように長くたゆたっている。生まれ落ちた赤ん坊が、そのまんま成長したら、こんなふうになるだろうか。指先も、裸足の足の先すらも、汚れ一つないのだ。
     そしてこの目の前の美しい人は、とても背が高かった。その身長は、おそらくアサユキの倍はあるのではないかと思われる。アサユキは子どもではあったが、集落の一番大きな男の胸くらいの背丈はある。
     それに、何よりも不思議なものが二つ。
     男(……とても美しいが、目の前に立つこの人は、どうやら男のようだった)その男の、両側頭部からにょきりと生える巨大な枝角。そして虹彩のない、ぽっかりと深い穴を覗き込んだような漆黒の瞳。

    「あなた、だれ?」

     不思議と恐怖は消えていた。

    『おまえには、私がみえるのか?』

     男の発する言葉は、まるで頭のなかに直接響いてくるようだったが、男の唇は確かに動いている。
     アサユキは、男をみつめたまま、コクリと頷いてみせた。

    『おまえは、私の声もはっきりと聞こえるのだな』

     またアサユキは頷いた。

     すると、カラカラカラカラ……と、涼やかな笑い声が響き、その声が乱反射して頭の中をかき回すので、アサユキは軽いめまいをおぼえた。

    『ならばおまえ、大神子か』
    「え……?」

     その言葉にアサユキは固まった。

    「違うよ!」

     そして慌てて否定する。
     大神子様は神子の里にいらっしゃって、恐れ多くも、このオオクマ川流域に点在する幾つもの集落を束ねる指導者様でいらっしゃる。

    「違うよ! わたし、大神子さまじゃないよ! 大神子様は神子の里にいらっしゃるとても霊力の強い神子様で、もうおばあさまなんだよ! それに神子様は、狩りなんてしないよ!」

     必死に否定するアサユキを尻目に、目の前の男はクスクスと笑い続けた。
     アサユキは頭の中がガンガンとして、両手で髪を掴み、頭を押さえる。

    『確かに神子の里には、私を感知できるものたちが住んでいるが、本当の大神子は、もう何年もいないのだ』
    「ちがう、ちがうってば……大神子様は、ちゃんと神子の里にいなさるよ……!」

     男が天を仰いで笑った。
     男が笑えば、ますますアサユキの頭の中はガンガンとして、目がチカチカしはじめる。

    『弓を持ち、狩りをする大神子とは! ずいぶんと長く生きたが、初めて目にしたわ!』

     頭のなかで鳴り響く男の声。世界が歪んでいくような不快感に、アサユキの意識が途切れそうになる。

    『すまぬ、久方ぶりに大神子とこうやって会話をしたゆえ、力加減がうまくいかなんだ。わたしの名は、保澄ほすみ

     この時、アサユキの忍耐も限界に達していた。頭が割れるように痛い。
     最後の力を振り絞ると、崖の下をめがけて跳躍する。
     崖の途中のあちこちに木が生えていて、アサユキは斜面から伸びる枝を蹴りながら崖下に降り立った。

     一度だけちらりと崖の上に目を向ける。
     クラクラとする頭を、ブンブンと振りながら、アサユキは全速力で走り出した。


     
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    「孤独」 (完済)

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    「かつて、精霊がいた」 (完結)

    「アサユキ 精霊と出会う」
    その一 その二 その三
    「アサユキ 神子となる」
    その一 その二 その三 その四
    「アサユキと 白い精霊」
    その一 その二
    「アサユキと 魂の輪」
    その一 その二
    「アサユキ 決別する」
    その一 その二 その三