オオクマ川中流域は、山々に囲まれた盆地になっており、豊かな土地であった。
     幾つもの集落は、川を利用しての交流が盛んで、緩やかに大きなまとまりを形成している。
     そしてその幾つもの集落を結びつける役割を担っているのは、神子の里と呼ばれる特別な集落であった。

     神子の里に住むのは、各集落から選ばれた者たちで、彼らは神子、と呼ばれた。
     神子たちは結婚をすることも子をなすことも禁じられていたから、彼らに血のつながりはない。
     神子であるための資質は、精霊を感じることの出来る力のあるもの、その一点である。
     集落の背後には精霊の森がひろがり、神子たちは長である大神子のもと、精霊の声を聞き、それを人々に伝え、オオクマ川流域の集落を導くために一生を捧げるのである。
     神事や祈祷、亡くなったものたちのための死者送りの儀式を執り行うのも、この里の神子たちの役割で、この里の川べりにはなくなった子どもたちのための墓所もあるのだった。

     ◇

    「フキ、大神子様が呼んでいらっしゃる」

     その日、集落に建つ大中小の三つの櫓の下で、昼のお勤めと呼ばれる祈りを捧げ終えたフキは、先輩の神子に声をかけられた。
     フキはまだ若く、この里にやってきてからそれ程月日も経ってはいないのだが、とても精霊を感じる力の強い娘で、このまま成長すれば次の大神子になるのではないかと噂されていた。

     フキは集落の中をあちこち見回しながら歩き始めると、すぐに広場の隅の木陰で、背中を丸め胡座をかいて座っている大神子を見つけた。
     周囲には薬草が散乱している。
     どうやら、薬を調合しているらしい。
     人々に巣食った怨霊を追い出して、病を治すことも、神子の重要な務めなのだった。

    「大神子様、お呼びでしょうか?」

     フキは大神子の少し手前で膝をつき、頭を深く下げた。
     フキが声をかけると、石皿の上に覆いかぶさるようにして薬草をすりつぶしていた大神子は、手を止めた。

    「顔をお上げ……」

     ちりめんのように震える声に促されてフキが顔をあげると、深いシワの刻まれた大神子の顔がこちらを見ていた。細い目は、まるでシワの一部のようだ。

    「感じるかい? フキ」

     大神子の問いかけに、フキは背筋を伸ばし、目をつむって周囲の気配に神経を集中させる。しばらくするとフキは、はっとしたように目を開けた。

    「森が……ざわめいています。こんなことは、私がこの里へ来てから初めてです。精霊の森全体がざわざわと震えている。私にはこの感情が何であるのか、分からない。それと、精霊様の気が、いつもより強い? はっきりと精霊様の気配が感じられます」
    「うむ」

     大神子はうなずいた。

    「フキよ、この気配、どの精霊様のものかもわかるか」

     精霊の森には何柱かの精霊様がいらっしゃる。

    「はい、わかります。私が神子になった時にお会いした精霊、保澄様のものだと思います」

     いく柱かの精霊の中でも、森に一番古くからいる精霊は保澄であり、この森の主と言ってもよい存在だった。いにしえから人々とともにある精霊で、とても強い力を持っている。

    「あ!」

     フキが小さく叫んだ。

    「なんとしたか、フキ」

     フキはそわそわと腰を浮かせ、精霊の森へと続く集落の裏木戸の方を振り返った。

    「誰かがこちらに向かっている!」
    「うむ。……その通りじゃ。そのものは川からではなく、お前の今見ている精霊の森側の戸口からやって来る。フキ。その者が現れたらな、ここへ連れておいで」

     そういい終えると、大神子は再び背を丸めて石皿の上に覆いかぶさってしまった。そしてまたゴリゴリと薬草をすり潰しはじめる。

     フキは一度深々と礼をしてから立ち上がり、大神子の前を辞した。



     神子の里は、二箇所の出入り口がある。一つは川から続く道、そしてもう一つは精霊の森へと続く道だ。この集落を訪れる者たちは、たいてい舟を使って川に面した入り口からやって来る。精霊の森へ面した出入り口は、神子たち自身が使用することがもっぱらなのだった。
     フキはそちらの、めったに外からの来訪のない山側の出入り口に向かう。集落の周辺は柵で仕切られており、出入りする場所には木戸があった。
     フキは木戸を開けると、数歩里の外へと出た。

    (来る。駆けてくる。)

     次第に近づいてくる、何者かの気配に目を細める。
     その者はどうやらたった一人で走っている様子だった。荒い息遣い。駆けてくる者の混乱とおびえがフキに伝わってくる。

    (おまえは誰? なににおびえているの? もしかして……こども……?)

     フキがそう思った時物音がして、細いけもの道の左側の木立の間から、ひとりの少女が転がるように飛び出してきた。
     バキバキと音を立て、木々をへし折り、あちこちにちぎれた葉っぱや蜘蛛の巣をくっつけて、そのままの勢いで、少女はフキに突進してきたのだった。

    「きゃああぁぁ!」
    「うわわわわわゎゎ!」

     フキと少女のあげた声が重なる。
     あまり大きな声をあげてしまったので、里の中にいた神子たちの何名かが、何事かと顔をあげて、こちらを見ていた。
     フキは跳ね飛ばされないように、しっかりと走ってきた少女を抱きとめる。
     どん、という重たい衝撃がフキの胸を打った。
     腕の中で顔を上げた少女とフキの目が会い、お互いに息を飲む。

    「おまえ、アサユキ!? アサユキではありませんか!」
    「フキ! フキねえさま!」

     目をまんまるにしてフキを見上げるアサユキは、目に涙をためて「ねえさま!」と叫ぶと、フキの胸にギュッと顔を押し付け抱きついてきた。
     よほど恐ろしい目にあったのだろうか、抱いた肩が細かく震えている。

    「アサユキ、一体どうしたのです?」

     フキは戸惑いながら、声をかけ、なだめるように髪を梳いてやるのだった。


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    「孤独」 (完済)

    前編  中編  後編

    「かつて、精霊がいた」 (完結)

    「アサユキ 精霊と出会う」
    その一 その二 その三
    「アサユキ 神子となる」
    その一 その二 その三 その四
    「アサユキと 白い精霊」
    その一 その二
    「アサユキと 魂の輪」
    その一 その二
    「アサユキ 決別する」
    その一 その二 その三