神子となったアサユキが、一番がっかりしたことといえば、弓を取り上げられてしまったことだ。

    「神子は殺生をしてはいけないのです!」

     そう言って狩りを禁じられた時、アサユキは泣きたいような気持ちになった。もちろん、本当に泣いたりはしなかったのだけれども。

     しかし、神子といえども肉は食べる。
     どうしているのかといえば、ヒコの集落が狩りで採ってきた獲物が貢物としてこの里に届けられているのだ。神子の里の者は、自ら動物を仕留め、皮を剥ぎ……などということは、する必要はないのだ。
     そのかわり、大掛かりな狩りに出かける前には、神子たちはサキヨミを与える。どこの森に獲物が多くいるかとか、狩りに出かけるのによい日取りなどを皆に教えるのだ。
     神子に求められるのは、精霊からのサキヨミをいただくこと。病人を元気にしたり、死んだものの魂を浄化させたりということだった。
     

    「変な集落!」

     悪態をついてみても、状況は変わらない。
     狩りは、アサユキにとっては遊びのひとつだったし、アサユキはまだまだ子どもで、遊びたい盛りだったのだ。
     フキに教えてもらいながら、神や精霊、死者の霊を慰めるための作法を習ったり、複雑な薬草の調合を習ったりしていたが、アサユキは暇を見つけては里の後ろに広がる精霊の森へと足を運んだ。
     精霊様の気をじか
    に感じることは良いことだからと、精霊の森に入ることを禁じられることはなかった。
     それをいいことに、アサユキは精霊の森に毎日のように通い、あちこち走り回ったり、動物の残した跡や住処を探してみたりして遊んだ。大きな木にしがみついて森や木々の声に耳を澄ましたりもした。
     神子となって以来、……おそらく二十日ほどたったのだが、保澄も顔を出してはくれない。
     アサユキは神子の里での生活に、つまるところあきあきしていたのである。

     ◇

     ある日、アサユキは森の中で、浅い小川に沿って歩いていた。

     獣道から一段低いところを流れる小川だった。
     秋とはいえ、まだ木々には色づいた葉が残っていて、ところどころ、視界から小川を遮る。
     足をチャプチャプと冷たい水に浸して歩いていると、前方に生き物の気配を感じて、アサユキははっと息を殺した。

     生き物の方は、こちらには気がついていないようだ。
     目の前の茂みの向こうに、なにかがいる!
     アサユキがじっと立ち止まっていると、ぽつぽつと体に水滴が落ちかかるのを感じた。顔を動かさずに、目だけであたりを見回す。
     雨だ。
     雨がポツポツと降り始めている。
     水の上に雨粒が波紋を広げる。
     これはちょうどいいかもしれない。アサユキの口元が知らず緩んだ。
     この雨がアサユキの気配を消してくれる。
     アサユキはゆっくりと動き始めた。
     茂みの影からそうっと覗き込む。
     いのししだ!
     まだ子どもの可愛らしいうり坊が二匹。小川に鼻面を突っ込んで、水を飲んでいるらしい。
     アサユキの胸の鼓動が早くなる。

    (かわいい!)

     そのうり坊は、ギュッと抱き締めたくなるような可愛さで、まるまると太っていた。
     このところ、弓を持たずに森へ入ることに慣れてきていたし、保澄と触れ合ったことによって、そういった、動物だとか森に住む恐ろしいものへの警戒心が薄れていたのだろう。
     アサユキは、なんの武器も持たないままに、その二匹のうり坊の後を追いはじめた。
     少し前のアサユキならば、そんな危険なことはしなかったに違いない。
     それでもさすがに、気配を殺すことは忘れない。
     曲がりくねった小川。ともすれば木立に消えてしまいそうになるいのししの子を、目の端に捉えながら後を追う。
     パラパラと降る小雨が、アサユキの追跡を手助けしてくれる。
     しばらくすると小川は大きく右に曲がり、うり坊が完全に視界から消えてしまった。
     神子となる日までは、アサユキは精霊の森を訪れたことはなかった。だから、この森の中のことをよく知らない。この小川をたどるのもはじめての冒険で、この曲がった先がどうなっているのかもわからない。
     それでも、せっかく見つけたいのししを見失ってはなるまいと、思わず足早になる。
     そして、はっと足を止めた。
     小川の、右に湾曲していった先は少し広くなっていて、大きな水たまりのようになっていた。
     その水たまりの中で、二匹の子どものいのししが、アサユキが追ってくるのを承知していたかのように後ろを振り返り、じっと見つめていたのだ。
     そして、その二匹の後ろに控えていたのは、今まで見たこともないほどに立派で、真っ白ないのししだった。
     三匹にじっとみつめられてアサユキは身動きすることができなくなる。
     途端に、忘れていた野生の生き物への恐怖心が蘇ってきた。

    『アサユキ……。おまえが新しい神子だね?』

     頭のなかに声が響いた。低いけれども、女性の声だ。

    (精霊!?)

     真っ白な大いのししが二匹の子どもを押し分けるように進み出て、アサユキの真正面に立った。
     精霊の放つ気には、ピリピリとするような怒気が含まれていて、アサユキは震え上がる。

    『ホスミも年かねぇ? 森で狩りをしたお前に、なんの罰も与えなかったんだろう?』

     その声に笑いの波動がかぶさる。けれどもその笑いは冷たくて、アサユキの心臓がギュッと縮み上がった。
     白いのししがゆっくりと足を踏み鳴らす。
     アサユキの身体は小さく震えはじめる。それでもなんとか勇気を振り絞った。

    「ごめんなさい! 私、知らなかったの。精霊の森に入ってしまってたなんて! あの、もし罰があるって言うなら、受けます!……あの、でも、えっと……あんまり痛いのとかは……」

     逃げることも考えた。このまま枝を伝って木に登ってしまえば逃げられるのではないか? と頭の隅で考えた。相手はいのししだから、木の上までは登れないかもしれない。
     でも。と、押し留まる。
     禁忌を犯したのは自分なのだ。
     その罰を受けなければいけないというのも、本当かもしれない。

     そう思って、渾身の力を振り絞って、白いいのししの前に一歩進み出る。

     バシャッッ!

     激しく水音が立った。
     いのししは跳躍し、アサユキはぎゅっと目をつむった。
     体に衝撃を感じて、真後ろに倒れる。
     水の中に倒れ込む最後の瞬間に、アサユキは少しだけ体をよじることが出来た。とっさに頭を手で抱える。

     続く衝撃に備えていたのだが、いくら待っても衝撃は来ない。それどころか、辺りはしんと静まっている。
     川の流れる音や、葉っぱに雨粒のぶつかる音が聞こえた。
     アサユキは倒れこんだまま、おそるおそる目を開けた。

    「保澄!」

     白いいのししとアサユキの間に、アサユキに背を見せるようにして、保澄が立っていた。
     保澄と睨み合うようにこちらを向いているいのししの輪郭が、急速にぼやけはじめる。 

    『ほ、ほほほほほほほ……』

     頭のなかに狂ったような女の笑い声がこだました。
     いのししからもやもやとした霧のようなものが湧き出し、いのしし自体がその中に溶けていく。そして、真っ白な靄になり、またそれが再びまとまりだすと、そこには真っ白な豊かな髪を尻の下までも伸ばした美しい女が立っていた。

    スポンサードリンク


    この広告は一定期間更新がない場合に表示されます。
    コンテンツの更新が行われると非表示に戻ります。
    また、プレミアムユーザーになると常に非表示になります。

    「孤独」 (完済)

    前編  中編  後編

    「かつて、精霊がいた」 (完結)

    「アサユキ 精霊と出会う」
    その一 その二 その三
    「アサユキ 神子となる」
    その一 その二 その三 その四
    「アサユキと 白い精霊」
    その一 その二
    「アサユキと 魂の輪」
    その一 その二
    「アサユキ 決別する」
    その一 その二 その三