『保澄! 邪魔するでないわ! ちょっと驚かしただけじゃ』

     保澄に負けないくらいの大きな女だった。きゅうっとつり上がった目が印象的だ。

    伯偉はくい……戯れが過ぎよう』

     保澄ほすみの静かな声が響いた。アサユキは精霊というものは皆、保澄のようなものなのだと思っていた。
     保澄は、アサユキから見ると、どこかゆったりと落ち着いて、物静かな雰囲気がある。
     だが、目の前にいる伯偉はくいという名の精霊は、荒く猛々しい。
     アサユキはびっくりしてしばらく腰が抜けていたのだが、ふらつきながらもなんとか立ち上がった。
     浅い流れとはいえ、全身びっしょりと濡れていた。
     保澄の背後から、伯偉を覗き見る。
     先程までの恐怖が蘇り、アサユキの手は保澄の衣服をギュッと握りしめていた。

    『アサユキ、これは伯偉という精霊だ。わたしよりも年若い。だが、私が逝けば伯偉が精霊の森の主ということになるだろう』

     アサユキはその言葉に衝撃を受けて保澄の横顔を見上げた。

    「え? 保澄は逝ってしまうの?」

     保澄がアサユキを振り返った。

    『いや、お前達ヒトの時間は早い。だから、お前がこの世界にいる間にはまだ逝かないとは思うがな』

     保澄の言葉にアサユキは、ほっと安堵する。

    『なるほど。保澄。この女子おなご、あ奴に似ておるな。ほれほれ、おまえが昔……。あの女子も自分の過ちの罰は自分で受けるだなどと、大層なことをぬかしておったな……』

     そこまで言うと、くくく、と笑う。

    『……で、お前はこの娘を気に入ったわけだ』

     伯偉が身をかがめ、保澄の後ろのアサユキに自分の顔をすうっと近づけた。
     アサユキは思わず一歩退きたくなるのをこらえる。
     伯偉はじいっと、穴が空くのではないかと言うほどアサユキを見つめた。
     そしてふっと息を吐き出す。

    『ヒトというのは、感覚の鈍い生き物よの……。それほどに盲《めし》いていて、もどかしくはないのか』

     アサユキはなんと答えたら良いのかわからない。
     伯偉は身を起こすと腕を組んで、アサユキを見下ろした。

    『ふん。うぬらは盲いていけばいくほど、変な力をつけおるわ。けったいな儀式やら決まりやら……それに……』

     伯偉がさらに言葉を重ねようとしたが、保澄が手でそれを遮った。

    『すまぬなアサユキ。伯偉は顔に似ずしゃべり好きなのだ。お前にはわからぬことばかりなのにな。さて、おまえを送っていこう……』

     そういいながら、保澄はおろおろとするアサユキの肩を押し、その場から離れようとする。

    「あ、ま、待って! 保澄」

     アサユキは保澄の手から逃れると、一歩伯偉に近づいた。
     伯偉は、アサユキが自分の前に戻ってくるとは思っていなかったのだろう。無表情だった目が大きく見開かれている。

    「伯偉さま。わたしはアサユキと申します。精霊の里の神子となりました。精霊の森で、弓を放ってしまってごめんなさい! これからよろしくお願いします」

     そう言ってアサユキは深々と頭を下げた。

     伯偉はその様子を静かに見つめ、やがてゆっくりと瞬きをした。
     組んでいた腕を解くと、アサユキの正面に立つ。首を軽く振ると、白い髪がサラサラと音を立てた。

    『アサユキ。お前を神子と認めよう。いにしえにわれらがヒトと結んだ約束通りにな……』

     伯偉はそう言うと、くるりと踵を返した。

    「イチイ、ササメ、行くよ!」

     二匹のうり坊が、去っていく伯偉の後を追う。
     
     それが、アサユキと精霊伯偉との出会いだった。

     ◇

     それからというもの、アサユキは幾度となく伯偉や保澄と精霊の森で顔を合わせ共に過ごした。

     伯偉は子沢山の精霊で、その中にはまだ人の姿は取れないものの、アサユキと心を通わせられるものもいた。
     保澄と伯偉意外にも森のなかに精霊はいたのだが、言葉を話すように自由に意思の疎通ができる精霊は、今のところこの二柱の精霊のみだった。

     それでもアサユキは精霊の森で次第に精霊たちと仲良くなっていった。
     特に伯偉の子どもたちは、よくアサユキに馴染んだ。
     一緒に森を駆け回れば、アサユキは自分自身も精霊になったのではないかとすら思った。

    『昔は、この森にはもっとたくさんの精霊が住んでいた』

     保澄はそう言った。

    「どうして少なくなってしまったのかしら?」
    『さあ、今は精霊が少なくなった上に、われらのようにヒトと話すことが出来る精霊もどんどん減っていっている。ヒトだけではなく、われらも少しずつ変わってきているのやも知れぬ。いつか私たちは、ヒトの前からいなくなる時が来るのかもしれぬな』

     そう話す保澄にアサユキは「駄目だからね!」と言ってぎゅうっとしがみついた。

    「わたしが生きている間は、いなくならないって! 保澄はそういったんだから!」

     保澄は笑った。
     鈴を転がすような音が頭のなかに広がって、アサユキは、もっと保澄が笑ってくれたらいいのにと思った。



     ◇


     秋の終わりには神子の里で、毎年大きな祭りがおこなわれることになっていた。
     森の恵みに感謝し、秋から春にかけて本格的となる、狩の季節の安全と成功を祈る。また、その祭りの日には、精霊様からの次の年のサキヨミを頂くことになっている。
     祭りの日にちを決めるのも神子の務めだ。祭りを執り行うのに良い日を、精霊様から教えていただくのだ。
     アサユキは次期大神子として、その日にちを決める役目を与えられることとなった。
     何しろ毎日のように森に出向き、精霊たちと心を通わせているのだから、それくらいのことはアサユキにとってはどうということはない役目である。


    『そうさな……明日から雨が降る。しばらくはぐずついた天候となるゆえ……』

     精霊の森の中で、伯偉がつい最近の嵐で倒れた倒木の上に腰を掛けながらアサユキと会話をしていた。
     足元には伯偉の子どもたちがじゃれ合っている。

    『その雨が上がったら、その祭りとやらを行うといい。三日後だな』

     神子であるアサユキは、精霊である伯偉様から、そのように祭りの日についてのツゲを受けた。

    「ふーん」

     アサユキは、答えながらも、拍子抜けしていた。

    『ふーんとはなんだふーんとは』

     伯偉は言ったが、怒っているようではない。その声には苦笑いが混じる。

    「だって伯偉! ツゲを頂くっていうのは、もっとなんだかすごいことだとずっと思っていたの。……例えばこうやって」

     アサユキは胸の前で手を組んで見せた。

    「祈りを捧げるとか、香木をたくとかさ、お供えをして三日三晩踊るとかね? なんか、なんか、そういう凄そうなこと? するのかと思っていたんだもん。でも、ツゲって、精霊様とお話しするだけなんだね!」

     アサユキの言葉を聞くと、伯偉は声を出してけたけたと笑った。
     保澄と違って、伯偉は笑い上戸だ。保澄以上によく笑う。そしてよく怒る。要するに感情の起伏が激しい。

    『賑々《にぎにぎ》しいのはヒトだけだわ』

     伯偉はしばらくの間苦しそうに喘ぎながら笑っていた。

    『昔はヒトも、もっと見えていたものよ。われらを見ることも、これから起きる事を予見するサキヨミも、皆が出来る技だった。大したことではなかったのさ。だがヒトが集落を作り、家をつくり、道具を作り、家族を作り、火を使い……それと引き換えにして、どんどんとヒトはめしいていったのよ。ヒトは恐れた。どんどんと見えなくなっていくことに。だからわれらと約束を交わした。精霊の森では殺生をしないと、その代わり自分たちに出来なくなったサキヨミを自分たちの代わりに行ってくれと、我らにそう願い出たのだ。そしてヒトは、ツゲだのサキヨミだのと、それを大層なこととしてしまったのよ。われらは……そのようなものにはさして興味はないのだ。生贄も、何やら執り行われる儀式も祭りも、すべてはヒトがヒトのために行うことよ……』

     アサユキは、伯偉の言っていることはよくわからなかったのだけれども、一生懸命うなずきながら聞いていた。
     いつか分かるようになるまで覚えておこう。そんな風に思って……。

     その年の祭りはにぎやかだった。
     強い力を持つ神子が現れたこと。その年の森の恵みが豊かだったこと。精霊が与えてくれたサキヨミによれば、その年は、穏やかな冬になると告げられたこと。
     それらが人々に喜びを与えていた。
     集落という集落から、ほとんどの者が集まり、神子の里では夜通し火がたかれ、歌と踊りをカミと精霊にささげた。
     アサユキが神子となった年は、そんな穏やかな年であった。
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    「孤独」 (完済)

    前編  中編  後編New!

    「かつて、精霊がいた」 (完結)

    「アサユキ 精霊と出会う」
    その一 その二 その三
    「アサユキ 神子となる」
    その一 その二 その三 その四
    「アサユキと 白い精霊」
    その一 その二
    「アサユキと 魂の輪」
    その一 その二
    「アサユキ 決別する」
    その一 その二 その三