その日神子の里へ、アサユキの長兄であるマヒルが、ヒコの里の代表として訪れた。

     静かに雪が舞う日であった。
     マヒルは神子の里の神殿の中へ、正式な使者として通される。 
     足腰の弱っている大神子にアサユキとフキは手を貸して、神を祀った祭壇の下へと座らせた。その隣にはアサユキが座し、壁際にフキが控える。
     大神子に対峙する形でマヒルが腰を下ろしていた。

     マヒルの顔は蒼白で、口はぎゅうっと引き結ばれている。
     硬い表情のまま、祭壇の下に座した大神子に深々と一礼をすると言った。

    「大神子様にご報告があります」

     顔を上げてそれだけ言うと、しかし、マヒルは口を閉ざしてしまった。ゴクリと生唾を飲み込む音がして、マヒルが深呼吸をしている。
     空気も震えだしそうな緊張感に、アサユキは息苦しさを感じた。

    「あらたまって、いったいなんだい?」

     大神子とて、この緊張感を感じてないわけではないのだろうが、その声音からはいつもと違った様子はない。
     マヒルは、上げていた顔を軽く伏せた。

    「ヒコの里の狩人たちが、精霊の森に入りました!」

     早口でそういい切ったマヒルの額には、うっすらと冷や汗が浮かんでいた。
     大神子とフキはハッと息をのんだ。アサユキも、その意味するところがわからないわけではないのだが、心が、それを理解することを拒む。
     一番最初に反応を示したのはフキだった。思わず立ち上がり、マヒルに向かって一歩踏み出す。

    「マヒル! それは、精霊様との約束を反故にするという事……!」

     フキの鋭い叫びも、アサユキにはどこか遠いもののように感じられた。
     
     ついに、恐れていたことが起こったのだ。
     心の片隅でこんなことが起きるのではないかと、自分はきっと思っていたに違いない。
     起こってしまったことへの驚きを、アサユキは感じなかった。



     精霊の森の中で、その日、ヒトが狩を行った。




    「精霊の住む森では殺生をしてはいけない。代わりに精霊は人々にサキヨミを与える」

     長い間守られていた約束を、ヒトは手放したのだった。精霊たちをこの森に縛っていた約束が解き放たれる。



     その日、獲物となったのは、一匹の大きないのししだったと、兄は言った。

     兄からそのことを聞くと、アサユキはぴょんと飛び上がり、神殿の入り口から飛び出していく。 

    「アサユキ! どこに行くのです!」
    「待て! 今から行ってももう遅い!」

     フキの声も、兄の声も、頭に入ってはこなかった。
     ただただ走った。
     こうしている間にも、全てが手遅れになってしまうのではないか? 自分は、もしかしたらもう二度と、あの精霊たちと会えぬのではないか? そんな恐れがアサユキを突き動かしていた。
     
     


     それまで穏やかに風に舞っていた雪が、次第に勢いを増して世界を閉ざしていく。
     
     雪に閉じ込められた世界の中に、冷たい怒気をはらませて、美しい一人の女が立っていた。
     薄絹を纏った女は、雪の上だというのに裸足で立っている。
     白い顔をしているが、寒さに震える様子はない。ただ、まるで作り物のようにじっとそこに佇んでいた。
     女は、近づくアサユキへ意識を向けた。目はつぶっていて、こちらを向いてはいないのだが、アサユキには女の意識が自分へと向かうのをはっきりと感じることができた。
     アサユキは、ズボズボと雪に足をとられながら女に近づいていく。
     アサユキが女の目の前に立つと、ようやく女はその瞳を開いた。
     アサユキははあはあと肩を揺らし、崩れそうになるのを、膝に手をおいてこらえていた。

    「伯偉……」
    『アサユキ、壱偉が狩られたわ』

     女……伯偉の声を、雪の混じった風が攫って行く。
     伯偉の目は冷たくアサユキを見下ろす。

     何とかこらえていた力がガクリと抜け、アサユキはその場にへたり込んだ。尻が雪に埋まる。
     壱偉は伯偉の息子でアサユキの友達だった。

    「ああ……! なんてこと!」

     アサユキの奥歯がカチカチと音を立て、大粒の涙がその瞳から落ちた。

    『アサユキ、われはヒトに怒りをぶつけようとしたのだよ……。ああ、誤解してはいけないよ、壱偉が殺されたことを怒っているのではない。われが怒ったのはヒトが約束を反故にしたからだよ』

     アサユキが顔をあげると、伯偉の目は爛々と光り、赤みを帯びていた。

    『壱偉は、まさか精霊の森で自分が狩られるとは思っていなかったのだろうね。でなければ、あの子がヒトに狩られるなどということが、あろうか? あの子の断末魔の怒りが、この母には痛いほどに伝わってきたよ。……いいかい、アサユキ。ヒト以外にとっては、殺されることも、死んでいくこともそれほど大きな意味を持ってはいないんだよ。ただ、この世界を巡っていくことに変わりはないんだからね……。それよりも、約束でわれらを縛っておいて、その約束を、己らで、何の断りもなく、破り捨てたことが許せなかったのさ。まあ、私を止めたのは保澄なのだがね』

    「……保澄?」

    『そうだよ。お前と、そして私自身のために人を傷つけてはいけないとね』

    「わたしと?」

    『ああ、そうだ。保澄は言った。我ら精霊が人を傷つけるようなことになれば、おまえが苦しむとね。それに私も、そんなことをしてはただの獣に成り下がるだろうとさ。それでようやく、われは復讐を思いとどまった』

     伯偉は少しの間、遠い目をして精霊の森を見渡していた。そして再び語りだした。

    『そうさねえ……昔、お前とそっくりな魂を持つ女に会ったよ』

     アサユキは驚いて、顔をあげた。

    『その女は若かったけれども、とても力の強い大神子だったよ。そのころわれはまだ子どもで、今のように神子と言葉を交わすことは出来なかった。けれどもその大神子はわれとよく遊んでくれたよ。今のお前が壱偉と遊んだように。その女はまだ若いうちに死んだんだけれどもね、魂は巡るのだから、またいつかわれらと共に生きると言い残してね……。アサユキ、お前を見たときその女を思い出したのさ。保澄も、同じ思いを抱いていたようだったね』

    「それがわたしだと?」

     アサユキの問に伯偉は首を振った。

    『残念ながら、精霊にもそこまではわからないんだよ。ただ、お前の魂はあの女の持っていたモノととてもよく似ている……。そこまで似ている魂を、私は見たことがない』

     気が付けば、伯偉はへたり込むアサユキの目前に立っていた。

    『アサユキ、私はもう行くよ。ここはもう、精霊の森ではなくなるんだよ……』

     伯偉はそう言うとひざまずき、アサユキの頭を包み込むようにして撫でた。
     そして、ついとアサユキから離れた。
     はっとして顔をあげたアサユキが手を伸ばすが、伯偉はすでにゆらゆらと輝く光となって、降りしきる雪の中に溶けていく。

    「伯偉! 伯偉!」

     その姿を追って、両の手を差し伸べ、アサユキは叫んだ。
     だが、その叫びはむなしくこだまとなって己へと返ってくるばかりだった。
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    「孤独」 (完済)

    前編  中編  後編

    「かつて、精霊がいた」 (完結)

    「アサユキ 精霊と出会う」
    その一 その二 その三
    「アサユキ 神子となる」
    その一 その二 その三 その四
    「アサユキと 白い精霊」
    その一 その二
    「アサユキと 魂の輪」
    その一 その二
    「アサユキ 決別する」
    その一 その二 その三