伯偉はくいが森を去っていった。

     アサユキは精霊の森の中を、保澄の姿を求めて走っていた。
     あてがあるわけではなかったが、走らずにはいられなかった。
     あたりはすでに暗くなっていた。
     しばらく降り続いた雪はすでに上がり、雲間からは月が顔を覗かせていた。
     青白い月光は積もっていた雪に反射して、景色は白く浮かび上がらせる。
     解けては固まる。それを繰り返した雪は思いのほか固い。その雪の上を、サクサクという足音と、ハアハアという呼吸の音を響かせて、アサユキは走っていた。

    「保澄……保澄……!」

     伯偉と別れて、しばらく止まっていた涙が、つう、と一滴また落ちる。

    「どこにいるの……? もう行ってしまったの?」

     そう言葉にした途端、悲しくて、悲しくて、痙攣するように肩が震えた。
     どれだけ走り回ったのだろうか。口の中が乾いて唾液は粘り気を増している。頭の中がジンジンと痺れて、次第に感覚がマヒしてくる。もう、走っているというよりはふらふらと歩いているだけだった。

     けれども、そうなるにつれ、次第にはっきりと周りの気配を感じられるようになっていく。
     無意識に足が向く方へと歩いた。周りを木立に囲まれて、そこだけぽかりと開いたような空間に、月の光が差し込んでいた。
     その空間に、冷たい光を受けて、立派な枝角の、長い黒髪の男が立っていた。
     アサユキはその光の中に一歩足を踏み込むと、安堵のために足の力が抜けていく。腰が抜けたようになり、そのままガクリと膝をついてしまった。

    『アサユキ……』

     保澄は彼女の名を呼んだ。

    『伯偉は、行ってしまったよ。彼女の息子が殺されてね』

     知っているわ。と、アサユキは心の中で叫んだ。けれどまだ、ぜいぜいと荒い息がおさまらず、言葉が出てこない。

    『もう、この森に残っているのは私だけだ……みんな、みんな行ってしまったよ』

     月の光を見つめていた保澄が初めてアサユキに視線を向ける。

    『わたしは、お前を待っていたのかもしれない』

     保澄が言った。
     うつむき、肩で息をしていたアサユキは、顔をあげると、目の前の美しい男を見つめた。
     漆黒の瞳がアサユキを見つめている。

    『アサユキ、お前に会えてうれしかった。わたしはこの森を離れるが、お前のことは、きっと忘れない』

     保澄の言葉を聞いて、アサユキは大きく目を見開く。

    「保澄……保澄もなの? 保澄も私も置いて行ってしまうの?」

     アサユキは保澄の衣に縋った。

    「伯偉も、他の精霊たちも……みんな、みんないなくなってしまった……」

     涙がとめどなく流れ落ちる。

    「いやだ、保澄……。置いて行かないで! ずっと一緒にいるって言ったよ! 私が生きている間はいなくならないって言ったよ!」

     アサユキは保澄の腰に手を回して、ぎゅうぎゅうと腕に力を込めた。

    『アサユキ……』

     保澄はそっと、アサユキの頭髪の上に手を置いた。呼びかける声には、珍しく密かな戸惑いが含まれている。

    『われはここに留まることは出来ぬが、アサユキ。もしもおまえが望むなら……ゆかぬか? 共に……。アサユキ?』

    「……ともに?」

     保澄の姿は、銀色の月の光に溶けてしまいそうに見えて、アサユキは掴んでいた保澄の衣をきつく握りしめる。

    『わたしとともに、世界をめぐる命の輪に、還る日まで……』

     保澄の白く長い指が、アサユキの手を取る。

    「行くわ。保澄。行く……。わたしも、一緒に連れて行って!」

     保澄を見上げるアサユキに迷いはなかった。
     しっかりを手を繋いだ二人の身体が、靄に包まれ……そして、月の光に溶けていった。

     
     ◇


     
    「大神子様! それでそのアサユキという神子様は精霊様と一緒に里からいなくなってしまったのか?」

     キラキラと瞳を輝かせた少年が、食いつくように大神子である女に尋ねる。大神子のまわりには、質問を発した少年のほかにも数名の子どもたちがいた。

     まだ温かさの残る秋の日差しの中で、人々の顔が輝いていた。

    「ノスエ。それは誰にもわからないんだよ。でもあの年以来、誰もアサユキ様を見てないし、保澄様やあの森に棲んでらした精霊様達のお姿も見てはいないんだ。だからきっと、アサユキ様は精霊様と一緒にお山の奥にいらっしゃるのではないかと思うのだよ」

     大神子は答えた。

    「それで、アサユキ様は大神子様ではなくて、山神子様になったんだよね」

     子どもたちは里の奥の森へとその目を向ける。大神子も、ぐるりと広がる山々へと視線を向けた。懐かしい何かを探すようにその視線を空にさまよわせると、一つ瞬きをして目の前の子どもたちに向き直った。

    「さあ、行っておいで、踊りが始まるよ。神様と精霊様に踊りをお納めしておいで」

     精霊が山を去り、サキヨミがなくなった今も、秋の祭りは続いていた。
     神と精霊に、舞うことによって祈りを奉納し、この先の安泰と豊作を願う。神と精霊のための櫓《やぐら》の周りには子どもたちが輪を作って大人の踊りを見よう見まねで手足を動かしていた。

     山神子。

     人々はその名を、恐れと尊敬を持って口にする。山神子は精霊へのにえだと言われているからだ。
     人はその存在に無意識に罪悪感を持つのだろう。

     踊りの様子をひっそりと見守っていた大神子に一人の男が声をかけた。

    「フキ」

     そう呼ばれた大神子はふりかえると、笑顔になった。

    「マヒル」

     後ろには父の後をついで里長となった兄のマヒルが立っていた。

    「コメの出来はどうだい?」

     マヒルが尋ねる。
     この神子の里で実験的に植えられているコメ。この穀物は、保存がきくために、きっとこれからの里の生活を支えてくれるに違いなかった。

    「ああ、豊作になりそうだねえ。そろそろ、神子の里以外でもこれを作ってみてはどうかと思うのだけれど……」

     フキの隣にマヒルが並んだ。

    「本当かい? それは楽しみだ。そうそう、今年はサトイモの出来も良さそうだよ」

     マヒルはフキに笑いかけながら言った。
     二人の視線の先には金色にさざめく稲穂の波があった。

      

     人々は、自然と神と精霊と共に暮らした時代に別れを告げようとしていた。
     アサユキが暮らしたのこの地にも、もうすぐ本格的な稲作がおころうとしている。


     また、時を同じくして、隣接する大国より鉄が伝えられることとなる。
     ――――それは、これから始まる長い戦乱の時代の幕開けでもあったのだが、この時まだそのことを知るものは、この里にはいない。


    「アサユキ……!」

     フキは妹に呼びかけた。

     その瞳は遠くぐるりと世界を取り巻く山々に向けられている。

     フキの瞳の奥には、保澄と手を取り山々の奥へと旅立っていった、少女のままのアサユキの笑顔が映るのだった。


    かつて、精霊がいた エピローグ

    <了>

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    「孤独」 (完済)

    前編  中編  後編New!

    「かつて、精霊がいた」 (完結)

    「アサユキ 精霊と出会う」
    その一 その二 その三
    「アサユキ 神子となる」
    その一 その二 その三 その四
    「アサユキと 白い精霊」
    その一 その二
    「アサユキと 魂の輪」
    その一 その二
    「アサユキ 決別する」
    その一 その二 その三